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辛うじて生き残った小方の町並

先日ある方から掲示板に「大竹市小方の町並が消滅している」との情報を頂き、これは大変だ、ただこの眼で確認するまでは信じたくない、ということで視察?してきた次第。

大竹駅から北に2kmほど、国道沿いには大型商業施設もある一見近代的なこの地区、西側は旧山陽道の道筋で古い町並が残っている。
自動車専用道が新たに建設されることになり、この付近が予定地で既に町並のすぐ南は更地になり、古い町並の一部が失われたことは既に知っていた。さてもしや全て跡形もなくなってしまったのか?

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町並の南端付近。現在は建設用地として管理されている。

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国道から眺めた様子。

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あ、え?ここから残っている?

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町並の一番残っている付近は安泰か。

私はこの下2枚の風景も消えているのだろうと想像し見るのを恐れていた。でも前回通った時より立退きの範囲がハッキリしていて、いま残っているところは道路計画からははずれ、今後も町並風景が維持されものと思われた(地元の人に聞いてみたかったが、こういう方面の問題は地元にしか理解できない事情をはらんでいるのが常なので、確認する勇気は出てこなかった)。

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これは完成後のイメージ画像(岩国市HPより)
画像中央の緑の左側の道路が専用道で、カーブしている辺りに上下ランプが見える。これが今回更地になっているあたり。その北側(画像で言うと下側)は影響ない模様。


とにかく部分的とはいえ生き残りそうで一安心である。ただ専用道開通後、この付近の風景は一変しそうで残った古い町並も今のままという保障はどこにもない。
最悪の事態は避けられそうだという安堵の心が多くを占めながら、危惧の念も拭えないと言ったところ。
しばらく注視していきたい。
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by mago_emon2 | 2015-03-29 20:37 | 現場レポート | Comments(0)  

鞆港西の護岸整備図提示

広島県は24日、鞆港埋め立て・架橋計画を撤回した福山市鞆町で、鞆港西側の3町内会向けの説明会を開いた。2015年度に着手を予定する管理道路付きの護岸整備が完成した場合のイメージ図を初めて提示。参加した住民からは「景観を損ね埋立てと変わらない」との声も出た。
イメージ図では、延長約300mの砂浜に高さ平均50cmのコンクリート製堤防を巡らせている。堤防の陸地側には、幅約3mの管理道路を設けた。
説明会には、県土木局と地域政策局の幹部6人が出席。3町内会の住民役20人からは「防災は大事だが管理道路は不要」との意見が相次いだ一方で「県と協力するのも大事」と理解を示す声もあった。
(中略)県は早ければ18年度中の護岸整備の完成を見込む。県土木局の松永悟土木整備部長は「専門家の意見も聴き、再検討する」とした一方で「高潮対策は不退転でやりたい」と述べた。
県は12年6月に鞆港での架橋計画を撤回して以降、初めて本格的な事業費9億8500万円を15年度の当初予算に盛り込んでいる。
【「中国新聞」2015.03.25】

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計画があるのはこの船着場のある入江の西側(写真で言うと奥)の海岸線

1月に初めてこの計画のことを知った。確かに護岸のない区域も多く、初秋の異常潮位時、台風接近時などは高潮にさらされる恐れもある。
県は高潮対策には力を入れているようで、潮の上がってくる河川区域でも堤防のかさ上げを行ったり、私の自宅の近所でも部分的に護岸擁壁のない所の追加工事が始まったりしている。そういう方針の中で鞆港周辺ではそれが脆弱なまま放置しておくのかというのは確かに矛盾している。
ただそれには風景の改変が伴うことで、特にその問題が長年頭をもたげデリケートになっている鞆の住民にとって、災害対策とは言いながらはい解りましたと安易に受け入れがたいことは十分理解できる。
些細な改変であっても、今の歴史的港湾景観に傷をつけることになる。
架橋問題は一応の収束を見ても、まだまだ課題は尽きないところである。

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by mago_emon2 | 2015-03-26 23:43 | 鞆の架橋計画と町並保存 | Comments(0)  

【雑記】学生時代の印象は地下の厨房

学生時代、ほぼ一貫して一つのアルバイト先でお世話になった。
旅館の厨房での皿洗い場、各客室階への料理の運搬が学生に任されていて、私は主に洗い場担当として厨房にいることが多かった。
そこには多くの調理担当の職員が日々立ち働き、朝食の炊飯担当などは朝の4時から、そして夕食後我々の食器洗い、その他些末な雑事が最後の作業で、それが夜10時頃にかけて。一日の厨房の流れである。
旅館だから1日たりとも休むことがない。
旅館といっても修学旅行などの大口の団体客を相手にするビル旅館である。
一言で言うといわゆる、ホワイトカラーでない人々の職場である。
職員はほぼ全員寮に住み込み、喫煙率ほぼ100%、趣味といえばギャンブルの話が主流。
そうした環境で4年間働いたわけである。
むろん、大人の方々なので、学生である我々をそのような世界に引き込もうということはなかったが、そこでの経験は今思うと全く無駄になってないし、「B級知識・常識」の蓄積に大きく貢献するものとなった。
世間を全く知らない時期だけにそれを経験するかしなかったかは社会人初期にとって大きな差となったことだろう。煙草を勧められて覚えてしまい、以後約20年間喫煙歴を持ってしまったのは不覚だったが。

「おっちゃん」と呼ばれていた古老?の雑用係の人、洗い場のボス(女性)といわれていた人、私と同郷だったのだが、今もお元気なのだろうか。
一番仲良かった1学年上の人。飲みにも行ったし他のバイト先も一緒に掛け持ちしたりしたし、1年早く就職した後も部屋に押しかけ泊りがけで飲んだりした。ふとした機会から実家も知ったが元気でやっているのだろうか?会ってみたいなと思いながらもう連絡する術もない。
京都の町もあの頃から地下鉄が新設されたりしてかなり変わり、地下の厨房で働いていた頃がいつの間にか随分昔になってしまったのだが、不意にその情景、感触を思い出すことがある。

今日もふとそんな時が訪れて、これを書く気になった。
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by mago_emon2 | 2015-03-01 22:15 | 雑記 | Comments(0)